埋文ニュース

第27回 「キラキラした土器 ~雲母キラキラ阿玉台」

2017/04/25
今回は「キラキラした土器~阿玉台式土器」を1点紹介します。

厨台遺跡群(現在の51号バイパス厨台交差点東側付近)を発掘調査した時に径2.70mの円形の土坑から見つかった縄文時代中期(4500年ぐらい前)の深鉢です。
この土器は粘土に金雲母が混ぜられ作られているのが特徴で褐色の地に金色の星をちりばめたキラキラ輝く土器です。高さは46.7cmで、頸部から上は口に向かって広がる形です。口縁に4単位の把手が付いています。地紋や渦巻き状の隆体にも縄文が施され見応えのある土器です。阿玉台式土器と呼ばれ、縄文時代中期前半の文様や装飾が豊かな時代の土器です。鹿嶋市では同様の土器が厨台遺跡群を始めとする縄文時代中期の集落跡からたくさん見つかっています。
キラキラした雲母をじっくり観察してみてください。

 


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第26回 「神秘な石-津賀の大珠」

2017/04/25


みなさん神秘的な緑色の大珠を知っているかな。鹿嶋市でも4個しか見つかっていない貴重品だよ。
長さが9.6cm、幅が3.4cm、鰹節のような形をしているのが特徴で、美しい淡い緑色をしているヒスイ(翡翠)という石で作ってあるんだ。
縄文時代前期からヒスイの製品はあるんだけど、大珠は中期(今から5000年位前)に多く作られた胸飾り。ヒスイという石は縄文人が最も好んだ石材で、日本では新潟県糸魚川市周辺でしか産出しないけど、ヒスイでできた製品の分布は東日本全域で見つかっている。
縄文時代から奈良時代まで珍重されていたヒスイがその後忽然と生産されなくなってしまった。なぜヒスイの玉の生産をやめてしまったのかは謎。現代は糸魚川市周辺で宝飾として生産が甦っている。
大珠にも不思議があって、鉄の道具のない時代に穴をどうやってあけたのだろうか。石錐や竹ひごなどの棒錐と鳥の骨や竹管などの管錐が推測されているけど、この大珠はどんな道具を使って穿孔したのかは謎。
この大珠は津賀森林公園を建設する前の発掘調査で古墳時代後期(6世紀)の竪穴住居跡から見つかった。大珠は縄文時代中期のものなのにどうして古墳時代の住居から見つかったのかは謎。


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第25回 「弥生時代の縄文-西平遺跡の土器」

2017/04/25

 


みなさん、弥生時代の鹿嶋ではどんな土器が使われていたか知っているかな。今回は弥生時代の土器につけられた縄目の文様(縄文)を紹介するよ。
平成8年に行われた県道荒井麻生線の建設に伴う発掘調査では西平遺跡から弥生時代後期の集落跡が見つかった。竪穴住居跡から出てきた土器を調べると、茨城県北部の影響を受けた土器①・在地の土器②・南関東の影響を受けた土器などいくつかのタイプに分けることができる。
写真①は左のタイプで胴部下半には複雑な縄目の模様(縄文に別の縄文を巻き付けたもの)が転がっている。また写真②下部は縄文時代につけられた縄文に似ているが縄目がとても細かくて美しい。
弥生時代になると壺や甕(かめ)や食物を盛る高坏(たかつき)など薄手の土器が西日本から広まってくる。茨城辺りに住む弥生人も薄手の土器を作りはじめるけど、その表面には凝った縄目の模様をつけていたんだね。
縄目の文様は縄文時代から弥生時代まで約一万年以上もの長い間、様々な模様が地域ごとに変化してつけられていたんだ。この土器の他にも素敵な縄文の付けられた弥生土器がどきどきセンターに展示しているから、ぜひ見に来てね。

茨城県北部の影響を受けた土器①

在地の土器②


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第24回 鹿嶋の鍛冶屋 -春内遺跡の羽口-

2017/04/25
みなさん、鹿嶋では古墳時代から鉄作りが盛んであったことは知っているかな。今回は鉄作りに不可欠なふいごの羽口を紹介するよ。
ふいごとは炉の温度を上げて鉄を溶かすための送風装置のこと。羽口はふいごの先端、送風口に付けたもので、粘土を焼いて作った筒状の土製品で真ん中に孔が通っていているんだ。
写真のように使用された羽口は熱を受けて赤色や白色・青灰色に変色し、先端が溶けて鉄滓(てっさい)が付いている。
春内遺跡の発掘調査では鍛冶工房跡が19軒、その中には東西29.4m、南北5.5mの長大な工房跡が見つかった。この工房には全部で22基の炉が2列に並んでいた。炉には羽口が使われたままの状態で出土している例もあって、当時の羽口の装着使用状況を知ることができたんだ。
奈良時代のちょっと前のころ、佐田地区・片岡地区など奈良~平安時代の鹿島郡の役所の跡である神野向遺跡(かのむかいいせき)の周辺にやや規模の大きな鍛冶工房が作られたんだ。
鉄器文化は中国や朝鮮半島から渡ってきて、日本人は長い年月をかけて「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を使った日本独自の古代製鉄法を生み出した。鉄の文化は鉄作りの技術が進歩し、生産量が増えるにつれて一般の人々にも鉄製品が普及し日本の文化を発展させたんだ。どきどきセンターでは羽口と一緒に古代の鉄製品も展示しているから、ぜひ見に来てね。

 


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第23回 縄文人のブレスレット -神野遺跡出土の貝輪-

2017/04/25


みなさん「どきどきセンター」の企画展は見学に行ったかな?今日はその中から縄文人のブレスレットを紹介するよ。
写真はベンケイガイの貝殻で作った貝の腕輪で貝輪(かいわ)というんだ。縄文時代後期(今から約3000年前)の神野遺跡の貝塚から見つかった製作途中?のものだよ。
貝輪は縄文時代早期から弥生時代にかけて作られたブレスレット(腕輪)で、アカガイ・サルボウガイ・ベンケイガイ・タマキガイ・イタボガキなどの殻の厚い二枚貝やアカニシ・オオツタノハガイ・イモガイなどの巻き貝を使って作られたんだ。製作方法はそれぞれ異なっていて、二枚貝の場合は殻の真ん中に穴をあけて研磨して輪状に、巻き貝は殻を縦に輪切りにしたり横に輪切りにするんだ。使われる貝は地域や時代によって違うんだ。
縄文時代の貝輪は埋葬された人骨の腕に装着された状態で見つかることが多くて、その大半は女性なんだ。千葉県には製作途中や製作中に壊れた貝輪が二千点以上も見つかった貝輪を製作する遺跡や、土器の中に貝輪が33点も収められた状態で発見された遺跡があり、貝輪を交易品としていたのかもしれないね。
「こんな小さな貝輪は腕に入らないよ。」って大人の見学者が言っていたけど、大人になる前の掌がまだ小さい子供の時に貝輪を入れて、そのまま着けておくんだ。
みんなも貝輪を作ってみないカイ?。貝輪の作り方はどきどきセンターに説明してあるから見に来てね。
企画展示「君は知っているカイ(貝)?」は8月30日までだよ。


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第22回 祈り -片岡遺跡の土偶-

2017/04/25
みなさん今日は「鹿嶋市どきどきセンター」の逸品、片岡遺跡の土偶を紹介するよ。

この土偶は胸がふくらんでいるからたぶん鼻の高い美人?女性。よく見ると顔や体に細かい文様があるんだ。後頭部・額・のどから胸には粘土

ひもを貼り付けてキザミを入れ渦巻きを描き、まゆ・目・口も粘土ひもを貼り付けてキザミを入れて表現している。顔・背には縄文が付けられている。この時期の土器にも同様な文様が見られるんだ。
縄文時代後期の集落跡である片岡遺跡(かたおかいせき)から見つかった時は頭・肩・胴部がバラバラ。頭と体が10m以上も離れたところから見つかったんだ。前に紹介したイノシシの土偶とは調査区が別で約150m離れていて、作られた時期もこちらがちょっと前。
今から3500年前、片岡に住んでいた人々も土偶を用いて安産などを祈っていた。土偶は妊婦や女性を形取った物がほとんどで、割れた状態で見つかる例が多いため、祈りの時かその後に身代わりにするために割って捨てられたとも考えられているんだ。この土偶も祈りの後割られたなら、調査が終わり整理作業の時約3500年ぶりに頭と体がくっついたことになるんだ。
どきどきセンターにはこの土偶以外にも市内から見つかったたくさんの土偶が展示してあるから、ぜひ見に来てね。

 


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第21回 「律令の風」 -奈良時代の硯-

2017/04/25
硯が鹿嶋でお目見えするのは奈良時代。奈良~平安時代の鹿島郡の役所の跡である神野向遺跡(かのむかいいせき)から見つかった円面硯(えんめんけん)と呼ばれる硯があるんだ。須恵器と呼ばれる還元焼成で焼かれた灰色の硯は字のとおり円形で透かしの入った高台がついている。外側に高い縁をつけ、その内側にも縁をめぐらし、真ん中は陸といって墨を擦る部分、外側は墨水を入れる海の部分、使い方は今と一緒。墨は墨汁ではなく、固形のものを擦って使った。写真の硯は内側の縁が無いタイプを接合復元したもので、縁に沿う溝が海、真ん中が陸。平安の時代途中で石の硯が発達し、円面硯は使われなくなるんだ。
律令時代この硯で墨を擦り、木簡という木札にどこの誰が納める税か書き込み、都まで運んだんだ。律令という都から吹いてくる風は地方の農民には自分で風向きや強さを変えることは出来ず、たえず風任せ。6歳以上の人には口分田が与えられ、租・庸・調などの租税、労役・兵役など農民の生活は厳しいものだったと考えられているんだ。
当時、字を書ける人は主に役人か僧侶、国民皆が字が読み書きできるようになったのは明治時代、ついこの間だね。

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第20回 「墓穴を掘る」

2017/04/25
今回は少し寒くなちゃうお話、「鉄鍋を被った人骨」だよ。
厨台遺跡群(鹿島神宮駅の北側)を発掘調査したとき中世(鎌倉・室町時代)・近世(江戸時代)のいくつもの墓域が見つかったんだけど、その中に変わった墓があったんだ。鉄鍋を頭に被った人骨でね、人骨を鑑定してもらったら30歳以降の男性と推定された。
被っていた鉄鍋は直径26cm、高さ約12.5cmの大きさで、底部は無くなっていた。よく観察すると内側に1対の耳(とって)が付いて、底は丸かったみたい。
この墓は人骨と一緒に見つかった古瀬戸(こせと)の灰釉平碗(かいゆうひらわん)や鉄鍋の形から、14世紀後半から15世紀の金閣寺を建てた足利義満が活躍していた時代のものだとわかった。
これまで厨台遺跡群の中・近世の墓は200以上掘ったけど、こんな例は初めて。どうして鉄鍋を被せたのか本当はわからない。鉄鍋は初めてだけど、土鍋は例があるから、何か特別な事情があるのかな。

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第19回 「猪様」

2017/04/25


みなさん縄文時代の鹿嶋ではどんな動物が身近にいたか知っていますか。イノシシ・シカ・イヌ…いろいろありますが、今回紹介するのは「イノシシ」です。
片岡遺跡(現在のギフトショップタクキ付近)を発掘調査したときは縄文時代後期(3000年ぐらい前)の土器と伴にイノシシの土製品が見つかりました。頭・四本の足・尾の先端が欠けていますが、ぷりっとした胴はたぶんイノシシです。胴は磨消縄文(すりけしじょうもん)といって、縄文を付けた後、線で区画した中をすり消して無文にした模様を付けています。背にはたてがみを表現しているような帯が付き両端には耳を表現したような突起がつきます。
縄文時代後期になるとこのような動物形土製品が東日本を中心に現れ特にイノシシは数多く見つかっています。生活の必要品・実用品とはちょっと違っていますね。何か儀式に使っていたのでしょうか。
昨年調査した神野遺跡(かのいせき)の縄文時代後期(3000年ぐらい前)の貝塚からはイノシシの骨も見つかっています。


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第18回 鶴亀吉祥の皿

2017/04/25
鶴や亀、松に竹といった絵が描かれていて、慶賀を表している皿なんだ。直径約10cm、高さ約3.5cmのこの土器は灯明皿の形をしていて、絵は内面に墨で描いてある。中央の絵は蛇?かもしれない。
このおめでたい土器は昭和59年に鹿島城を調査したときに灰や煤のたくさん含んだ土の中から出てきたんだ。当時の調査では鹿島城の本丸区域から建物跡や塀の跡など城に関連した施設の跡と陶磁器など土器や臼などの石製品がたくさん見つかった。前に紹介した八鋒輪宝の土版もこの時のもの。この土器が使われたのは15~16世紀、時は戦国時代。
こんなめでたい絵だから正月用か吉祥日(陰陽道で何事をするにも吉とする日)用の灯明皿か飾りの皿かもしれないね。

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