埋文ニュース

第20回 「墓穴を掘る」

2017/04/25
今回は少し寒くなちゃうお話、「鉄鍋を被った人骨」だよ。
厨台遺跡群(鹿島神宮駅の北側)を発掘調査したとき中世(鎌倉・室町時代)・近世(江戸時代)のいくつもの墓域が見つかったんだけど、その中に変わった墓があったんだ。鉄鍋を頭に被った人骨でね、人骨を鑑定してもらったら30歳以降の男性と推定された。
被っていた鉄鍋は直径26cm、高さ約12.5cmの大きさで、底部は無くなっていた。よく観察すると内側に1対の耳(とって)が付いて、底は丸かったみたい。
この墓は人骨と一緒に見つかった古瀬戸(こせと)の灰釉平碗(かいゆうひらわん)や鉄鍋の形から、14世紀後半から15世紀の金閣寺を建てた足利義満が活躍していた時代のものだとわかった。
これまで厨台遺跡群の中・近世の墓は200以上掘ったけど、こんな例は初めて。どうして鉄鍋を被せたのか本当はわからない。鉄鍋は初めてだけど、土鍋は例があるから、何か特別な事情があるのかな。

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第19回 「猪様」

2017/04/25


みなさん縄文時代の鹿嶋ではどんな動物が身近にいたか知っていますか。イノシシ・シカ・イヌ…いろいろありますが、今回紹介するのは「イノシシ」です。
片岡遺跡(現在のギフトショップタクキ付近)を発掘調査したときは縄文時代後期(3000年ぐらい前)の土器と伴にイノシシの土製品が見つかりました。頭・四本の足・尾の先端が欠けていますが、ぷりっとした胴はたぶんイノシシです。胴は磨消縄文(すりけしじょうもん)といって、縄文を付けた後、線で区画した中をすり消して無文にした模様を付けています。背にはたてがみを表現しているような帯が付き両端には耳を表現したような突起がつきます。
縄文時代後期になるとこのような動物形土製品が東日本を中心に現れ特にイノシシは数多く見つかっています。生活の必要品・実用品とはちょっと違っていますね。何か儀式に使っていたのでしょうか。
昨年調査した神野遺跡(かのいせき)の縄文時代後期(3000年ぐらい前)の貝塚からはイノシシの骨も見つかっています。


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第18回 鶴亀吉祥の皿

2017/04/25
鶴や亀、松に竹といった絵が描かれていて、慶賀を表している皿なんだ。直径約10cm、高さ約3.5cmのこの土器は灯明皿の形をしていて、絵は内面に墨で描いてある。中央の絵は蛇?かもしれない。
このおめでたい土器は昭和59年に鹿島城を調査したときに灰や煤のたくさん含んだ土の中から出てきたんだ。当時の調査では鹿島城の本丸区域から建物跡や塀の跡など城に関連した施設の跡と陶磁器など土器や臼などの石製品がたくさん見つかった。前に紹介した八鋒輪宝の土版もこの時のもの。この土器が使われたのは15~16世紀、時は戦国時代。
こんなめでたい絵だから正月用か吉祥日(陰陽道で何事をするにも吉とする日)用の灯明皿か飾りの皿かもしれないね。

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第17回 海のめぐみ

2017/04/25
 
鹿嶋に住んでいた縄文人もいろんな魚や貝を捕って食べていたんです。今回は縄文時代の「海のめぐみ」ついてお話ししましょう。
厨台遺跡を発掘調査したとき縄文時代中期(5000年ぐらい前)の土坑に埋まった貝層ブロックからマダイ・マアジ・ヒラメ・スズキ・マイワシ・サメ類・ウナギなどの骨やマガキ・アサリ・ウミニナなどの貝が見つかりました。
また片岡遺跡を発掘調査したときは縄文時代後期(3000年ぐらい前)のハマグリが主の地点貝塚からはフグなどの骨が見つかりました。この時代にはフグを食べていたんですね。
そして平成14年に調査した神野遺跡の縄文時代後期(3000年ぐらい前)の貝塚からはバカガイ・ハマグリなどの貝に混じってマダイ・アジ・スズキ・イワシ・クロダイなどの魚骨やヤスといって魚を突き刺して捕まえる道具も見つかりました。
縄文人って結構おいしいものを食べていたのですね。余談ですがこれらの遺跡からはイノシシやシカの骨も見つかっていますのでボタン鍋も食べていたのかな。
こちらから挿絵がご覧いただけます。


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第16回 「急々如律令」 呪符木簡

2017/04/25

みなさん安倍晴明を知っていますか。このごろブームの陰陽道。鹿嶋でも行われていたんだよ。
鉢形地区や爪木地区の条里遺跡(田んぼの跡)から見つかった木簡に「急々如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう)と書かれていたんだ。
「急げ急げ律令の如く」つまり「法令に従って速やかに実行せよ」って意味。この文句はもともと中国で漢の時代に公文書の書止めに使われていたんだ。
鉢形から見つかった木簡のもう片面には「蘇民将来子孫也」(そみんしょうらいしそんなり)と書かれていたんだ。この蘇民将来とは備後国風土記に出てくる伝説上の人物で、北国に住む武塔の神が妻となる女性を探しに南の国に赴いたら途中で日が暮れてしまった。そこで蘇民将来と巨旦将来に一夜の宿を求めたら裕福な弟巨旦は断り、貧乏な蘇民は歓迎した。武塔の神は帰路再び巨旦の家に寄りそこで働く蘇民の娘に「蘇民将来子孫也」と書かれた木簡と茅の輪を与え、この娘を残して巨旦将来一族を滅ぼしてしまった。つまりこの木簡を身につけたり家屋の入り口に付けることで自分は蘇民将来の子孫なので武塔の神が起こしたような仕打ち(疫病・災難)から免れることができるようにと願ったんだ。
使われていた時代は多分一緒に見つかったものから推測して中世?低湿地に埋まっていたから朽ちなかったんだ。
でもどうして水田からこんな呪符(じゅふ)が見つかったのかな。稲の病害虫除けかな。豊作祈願かな。


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第15回 冥府に散る花 -日光山古墳群出土直刀-

2017/04/25

 
前回に続いてお墓の話。埴輪が古墳を守る一族の象徴なら、石棺に納められた副葬品は、冥府(冥土)に向かう死者の精神的な象徴でもある。
図は津賀の日光山古墳群(13基)の10号墳から出土した鉄の直刀。10号墳は全長約26mの前方後円墳で、後円部の径が約18m、高さは2.3m、前方部長が8m、高さは1mあるんだ。主体部〔死者を埋葬したところ〕は後円部南側裾に検出された箱式石棺で、内からは人骨と直刀4振り、鉄鏃(やじり)が20本も見つかっているんだ。刀と弓矢は武器だから、亡くなった人は戦で活躍した武人だったのかも。生きているときに活躍した証を、冥土の土産にもっていこうとしたのかな。実はこの刀、鍔のところに象嵌といって、鉄地に彫刻して金とか銀を埋め込んだ貴重なものなんだ。今は錆びているけど初めはピカピカ光ってきれいだったと思うよ。レントゲン撮影でわかったんだけど、象嵌の模様は「の」の字に似ていて、もちろん鹿嶋では初めての発見。古墳の埋葬者は地域の中でも有力な豪族と考えられているから、日光山に埋葬された人々は華も実もある、津賀地区を支配した実力者だったんだろうね。 


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第14回 時代を見つめる眼差し・・・人物埴輪・・・

2017/04/25

以前出土したときのことを市の広報誌で紹介したことのある埴輪である。出土地は大野支所の西方約0.5kmにある二子塚古墳。全長約20mの前方後円墳のくびれ部から、馬の埴輪などといっしょに出土したもので、残っていたのは顔だけで躰の部分は見つかっていない。やや面長の顔の長さは約18cm、中は中空で土器の厚さは約20mmと厚く、耳の部分は省略されて直径6mm程の孔が開いている。額には粘土紐が廻り、帽子か冑を表しているようである。首には飾りの玉がつけられているが、男性の農夫か兵士と思われる。目と口は穴があけられて、ちょっと寂しげで、少しばかり憂いのある目元、そして何か言いたそうな口元、その表情は凛としているが穏やかそうである。
もともと埴輪は古墳の葬送儀礼のために作られたもので、神聖な墓域を区画するための標識のようなものと考えられているんだ。素朴なつくりは牧歌的で古代の風俗や生活を表現しているといわれ、情感的で稚拙な美しさを持っている。1500年もの時代を越え、未来の世界に現れた埴輪。どこか遠くを見つめているようなまなざしは何を物語っているのだろうか。

 


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第13回 縄文人のメッセージ?縄文土器深鉢形土器

2017/04/25


やあ、こんにちは。今回もちょっと珍しいものを紹介します。発掘調査では時おり何千年も前に作られた土器が、まったく無傷で出土することがあるんだけど、これを完形土器と呼んでいます。写真の土器は平成3年3月、片岡の個人住宅の調査で見つかった完形の縄文土器。直径が40cm、深さが140cmの穴の途中に、壁に寄り添うように立った状態で検出されました。中にはサラサラした土と小さな骨片が入っていたから、きっと骨壺に使ったんだろうね。黒っぽい表面には縄文と、ブタの鼻のような突起、それとなにやら記号めいた模様がつけてある。「X」と横にした「U」に似ているんだけど、よく見ると、微妙に組み合わせが違っているように見えるんだけど、皆さんにはどう見えるかな。この土器は今から約3000年前の縄文時代後期〔安行式〕の頃のもので、この時代にはまだ文字が使われていた証拠はないんだけど、縄文人の優れた技術や高い精神性を表す絵や土器は残されているんだから、きっと言葉や文字に変わるもの、たとえば記号かなんかもあったかもしれないね。もしこの模様が墓碑銘のような文字で、縄文人のメッセージだとしたら、そして解読できたら、日本中がアッ、と驚く大発見だよ。


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第12回 縄文人は未来志向!?注口土器

2017/04/25


縄文時代っていうのは1万年以上も続いていたんだけど、やっぱりその時代には、その時代の流行があって、縄文人はその流行にとっても敏感だったんだ。どんな方法で情報を手に入れたのかはまだわかっていないけど、遠いところで取れるものでも手に入れているから不思議なんだ。物ばかりでなくファッションの流行だってちゃんと取り入れている。写真の土器は前回の土器と同じ片岡遺跡から出土したもので、年代もほぼ同じ約3000年以上前のもの。このヤカン形の土器、把手こそ付いていないけど、どう見たって現代のヤカンにそっくりでしょ。しかもデザインや機能は今のものと殆ど変わらない。土器の体部はテカテカ光沢を帯びるほど丁寧に磨かれているんだ。そして表面には細い竹のようなもので渦巻きか襷のような模様が描かれている。注口土器って言うんだけど、名前のとおりヤカンのような注ぎ口が付いている。お酒か何か飲み物でも入れて、お祭とか儀式のときにでも使って飲んだのかなー。いっしょに出てきた土器も四角い皿や亀の甲羅のような不思議な形をしたものが多くいので、この土器も普通の土器ではないと考えられているんだ。


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第11回 子孫繁栄を祈る・・・子持勾玉

2017/04/25
 今回紹介するのはコレ。なんだかわかるかな。孔が眼のように見えるので鳥のくちばしかウリ坊(猪の子ども)、はたまた魚のようにも見えるなんともヘンテコリンな奇妙な形でしょ。実はこれ滑石という柔らかで加工し易い石で作られた子持勾玉という石の製品である。言葉のとおり腹や背中、両脇のほうまで簡略化した小型の勾玉が幾つもぶら下げるように付けられている。まるで映画に出てくるゴジラのミニチュア版のようだね。古墳の副葬品や祭祀の遺跡から出土しているものが多く、神を祭る儀式、あるいは使者を送る儀式に使われたものだろうと推定されているンだけれど、本当のところは分かっていないんだ。でも自然に依存することが多い昔のことだから、子孫繁栄や食料である自然の恵みが増えるようにと、古代の人々が神(自然)やなくなった人の魂に祈りをささげるときに使ったんだろうね。
呪術的な性格を持つ道具と思われる勾玉は、彎曲した体の一端に穴をあけたもので、縄文時代からある日本独自の玉の形で、紐をつけて首から吊り下げる装身具と考えられているんだ。昔は頭の端を嘴形に彫刻し、孔を目とする鳥の頭になぞらえたもの、江戸時代には石剣頭(刀剣の把頭)とする珍説もあったんだよ。『日本書紀』には「勾玉」、『古事記』には「曲玉」と書かれているから、ずうっと昔から使われてきたんだね。大昔の祭祀や信仰の生活は今も形を変えて続いている。

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