埋文ニュース

第34回 風土記の郷④-新旧の郡の役所の謎

2017/04/25


奈良時代の地誌『常陸国風土記』には「香島の神の社の南に郡家がある。また北に沼尾の池がある。古老が言うには……この地は以前郡家の置かれていた処である。……」と記載されています。この記載によって郡の役所は沼尾周辺から神宮の南に移転したことがわかります。神宮の南の役所跡は昭和59年に神野向遺跡と特定できましたが、前の郡家の具体的な場所の特定はできていません。何カ所かの候補がありますが、本当の場所はどこでしょうか。そして何年にどんな背景があって移転したのでしょうか。謎につつまれています。


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第33回 風土記の郷③-今も昔も鉄づくりの街

2017/04/25


 奈良時代の地誌『常陸国風土記』には「慶雲元年(704)国司が鍛冶師を連れて若松の浜で浜砂鉄を採り、これで剣を造った。この若松の浦(若松の浜周辺の浦)は常陸・下総両国の国境であり、その若松の浦の安是の湖(利根川河口周辺)に産する砂鉄は剣を造るとたいそう良く切れる。しかしながら、そこは香島の神の神域にあたるので、松を伐採したり砂鉄を掘ることはできない」と記載されています。当時の製鉄は多くの木炭と砂鉄を使用したので、原料を揃える意味でも香島の神域(神郡)は製鉄に適した場所であったと考えられます。風土記に記載されている製鉄遺跡の特定はできませんが春内遺跡や片岡遺跡など市内にはこの時代の製鉄関連遺跡が多数見つかっています。


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第32回 風土記の郷②-墨書土器「方野【かたの】 方 村」

2017/04/25


奈良時代の地誌『常陸国風土記』の鹿嶋の部分には「東と西が海に面して峰や谷が入り組む中に村里が点在しています。(中略)春には花が咲きにおい、秋には木々が紅葉して錦を織りなしている仙人の住む神秘的な地であります」と記されています。
今回はこのように郷の豊かな景色のうちの1つである方野村の地名が書かれた土器を紹介します。土器は奈良時代の竪穴住居跡から出土しました。須恵器と呼ばれる窯で焼かれた青灰色の土器で、高台の付いていない盤の外側の底に「方野 方 村」と墨で書かれていました。この土器の見つかった場所は現在の国道51号バイパス「厨台」交差点の東側100m位の地点です。
「方」とか「方野」と書かれた土器はこれまでに厨台遺跡群では3点見つかっています。現在でもすぐ近くに片野という地名が残っています。風土記の中に鹿嶋の風光明媚な様子が記載され、古代から人の住みやすい土地であったことが想像されます。


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第31回 風土記の郷①-墨書土器「鹿嶋郷長」

2017/04/25

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第30回 古代の税金? ~神野向遺跡から見つかった炭化米~

2017/04/25
 ついこの間までお米で税金を納めていたことをみなさんはご存知ですか。
奈良・平安時代の郡の役所跡である神野向遺跡の大溝からたくさんの炭化材や炭化米が見つかっています。大溝は税として納められた米を入れておく倉庫域の周囲を取り囲むものでした。この大溝から炭化米が見つかったことにより、倉庫が火災を受けたことが想像されます。
645年「大化の改新」によって全ての土地と人民は戸籍の整備等により国家管理体制となり、646年「班田収授法」により人々に「口分田」(くぶんでん)と呼ばれる農地を与える代わりに、収穫した稲の約3%を「租」として国家に納めることとしました。つまり、律令国家の財源は人々を戸籍に登録し、税を負担させることによって成り立っていました。
「班田収授法」に始まった米を税として納めるしくみは、世の中を治める人や社会が替わっていく中で、1837年(明治6)「地租改正法」が公布されるまで約1200年続きました。
そして神野向遺跡の大溝から見つかっている炭化米は租税そのものでしょう。

 


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第29回 古代のはんこ ~銅印「福」~

2017/04/25
おめでたい字「福」の銅製の印を紹介するよ。

印は鹿島郡家(かしまぐうけ)という奈良~平安時代の鹿島郡の役所である神野向遺跡の食膳を担当する厨家(くりや)地域から見つかった。3.3cmの方形で高さは3.7cm、鈕の部分は少しゆがんでいる。
現代社会でも必要で大切な印章は古代律令社会でも同じ。古代の印は何種類もあって、内印(天皇御璽)が一番大きく格が上。大きさはその格で厳密に規定されていたんだ。常陸国印は見つかってないけど、奈良正倉院の文書から印影を知ることができるよ。「福」印の詳しい性格はわからないけど、当時の大切な印であることは確か。大きさからみると郡印(方約4.7cm)より小さいんだ。
実物はどきどきセンターにあるから、見に来てね。

 


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第28回 「私も読めた奈良・平安時代の墨書土器」

2017/04/25
 鹿島郡家(かしまぐうけ)って知ってますか?奈良~平安時代の鹿島郡の役所のことです。古代の役所は実質的に政治を行う政庁(せいちょう)と郡内から集められた租税稲を収納した倉庫群正倉(しょうそう)、役所の食膳を担当する厨家(くりや)とに分かれていました。
今日紹介する墨書土器はその厨家から見つかった土器「鹿厨」と「神宮」です。当時の食器である土器の底に墨ではっきりと書いてあります。1200年も前の文字が自分でも読めるなんて感動ですね。
役所のあとからは、このほかにもたくさんの墨書土器や瓦、銅印「福」も見つかっています。



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第27回 「キラキラした土器 ~雲母キラキラ阿玉台」

2017/04/25
今回は「キラキラした土器~阿玉台式土器」を1点紹介します。

厨台遺跡群(現在の51号バイパス厨台交差点東側付近)を発掘調査した時に径2.70mの円形の土坑から見つかった縄文時代中期(4500年ぐらい前)の深鉢です。
この土器は粘土に金雲母が混ぜられ作られているのが特徴で褐色の地に金色の星をちりばめたキラキラ輝く土器です。高さは46.7cmで、頸部から上は口に向かって広がる形です。口縁に4単位の把手が付いています。地紋や渦巻き状の隆体にも縄文が施され見応えのある土器です。阿玉台式土器と呼ばれ、縄文時代中期前半の文様や装飾が豊かな時代の土器です。鹿嶋市では同様の土器が厨台遺跡群を始めとする縄文時代中期の集落跡からたくさん見つかっています。
キラキラした雲母をじっくり観察してみてください。

 


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第26回 「神秘な石-津賀の大珠」

2017/04/25


みなさん神秘的な緑色の大珠を知っているかな。鹿嶋市でも4個しか見つかっていない貴重品だよ。
長さが9.6cm、幅が3.4cm、鰹節のような形をしているのが特徴で、美しい淡い緑色をしているヒスイ(翡翠)という石で作ってあるんだ。
縄文時代前期からヒスイの製品はあるんだけど、大珠は中期(今から5000年位前)に多く作られた胸飾り。ヒスイという石は縄文人が最も好んだ石材で、日本では新潟県糸魚川市周辺でしか産出しないけど、ヒスイでできた製品の分布は東日本全域で見つかっている。
縄文時代から奈良時代まで珍重されていたヒスイがその後忽然と生産されなくなってしまった。なぜヒスイの玉の生産をやめてしまったのかは謎。現代は糸魚川市周辺で宝飾として生産が甦っている。
大珠にも不思議があって、鉄の道具のない時代に穴をどうやってあけたのだろうか。石錐や竹ひごなどの棒錐と鳥の骨や竹管などの管錐が推測されているけど、この大珠はどんな道具を使って穿孔したのかは謎。
この大珠は津賀森林公園を建設する前の発掘調査で古墳時代後期(6世紀)の竪穴住居跡から見つかった。大珠は縄文時代中期のものなのにどうして古墳時代の住居から見つかったのかは謎。


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第25回 「弥生時代の縄文-西平遺跡の土器」

2017/04/25

 


みなさん、弥生時代の鹿嶋ではどんな土器が使われていたか知っているかな。今回は弥生時代の土器につけられた縄目の文様(縄文)を紹介するよ。
平成8年に行われた県道荒井麻生線の建設に伴う発掘調査では西平遺跡から弥生時代後期の集落跡が見つかった。竪穴住居跡から出てきた土器を調べると、茨城県北部の影響を受けた土器①・在地の土器②・南関東の影響を受けた土器などいくつかのタイプに分けることができる。
写真①は左のタイプで胴部下半には複雑な縄目の模様(縄文に別の縄文を巻き付けたもの)が転がっている。また写真②下部は縄文時代につけられた縄文に似ているが縄目がとても細かくて美しい。
弥生時代になると壺や甕(かめ)や食物を盛る高坏(たかつき)など薄手の土器が西日本から広まってくる。茨城辺りに住む弥生人も薄手の土器を作りはじめるけど、その表面には凝った縄目の模様をつけていたんだね。
縄目の文様は縄文時代から弥生時代まで約一万年以上もの長い間、様々な模様が地域ごとに変化してつけられていたんだ。この土器の他にも素敵な縄文の付けられた弥生土器がどきどきセンターに展示しているから、ぜひ見に来てね。

茨城県北部の影響を受けた土器①

在地の土器②


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