埋文ニュース

第37回 縄文土器のうつりかわり①-「こんにちは縄文土器」

2017/04/25


今年度の「かしまのざくざく」は縄文土器のうつりかわりについて鹿嶋の遺跡を中心に紹介します。

縄文土器の由来は、明治時代、アメリカ人のモース博士が日本で初めて東京都品川区大森貝塚を調査し、そこから出土した土器に命名したことからであります。モースは、縄目の土器をみて「cord marked pottery」と名付け、これを「縄文土器」として訳し、その後、一般的に使われるようになりました。
土器は可塑性を持つ粘土を材料として形をつくり、焼き上げた容器のことで、他の遺物と比べて形や文様がいろいろ変化し、出土する量も多いので、時代や地域による違いと変化を詳しくみることができます。
また、時代によって形や文様に変化が多いので、縄文土器を六つの時期に大きく区別し、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と呼んでいます。
最初の縄文土器である草創期の土器は、煮炊き用の土器で、平底と丸底の2タイプがあります。しかし、現在のところ鹿嶋では草創期の土器は見つかっていません。現在見つかっている鹿嶋で最も古い土器は早期の土器です。
早期の土器については次回をお楽しみに。


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第36回 風土記の郷⑥-角折の地名説話

2017/04/25


 奈良時代の地誌である『常陸国風土記』には角折の地名の由来が二説載っています。
一つは昔この地に大蛇が棲んでいて、東方にある海(鹿島灘)に出ようと思い浜に穴を掘っていたときに大蛇の角が折れて落ちたため、角折と付けた説。もう一つは別の人が言っているとして、倭武の天皇がこの浜で仮の宿をおとりになる際、お食事をさし上げようとしたところお飲みになる水が全くなかったので鹿の角を手にして地面を掘ったところ、その角が折れてしまったので名付けた説です。
鹿嶋市内には風土記に遺されている地名が幾つかありますが、地名由来の説話が記されているのは角折だけです。
風土記は奈良時代に国別に編纂されましたが、まとまったかたちで残っているのは常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五カ国です。『常陸国風土記』は真壁郡や河内郡の記事を欠きますが、地名起源説話や伝承など奈良時代の貴重な史料です。


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第35回 風土記の郷⑤-高家郷の白布

2017/04/25


奈良時代の鹿嶋市域は六つの郷(松浦まつうら・鹿嶋かしま・高家たけい・潴尾ぬまお・中村なかむら・下鳥しもとり)に分かれていました。今回はその中の「高家郷」の名の記載された奈良東大寺正倉院に残る白布を紹介します。白布(写真)は曝布(さらしぬの)で麻布であり、調布(税)として郡家・国府を経て奈良の都に送られたものです。白布には墨で天平勝宝四年(752年)の十月に常陸国鹿嶋郡高家郷(今の武井周辺)の戸主が占部手志、占部鳥磨が作り納められた曝布壱端であることや、担当の国・郡の役人の名前が書かれ、常陸国司の印が押されていました。常陸国印の印影はこの資料が唯一のものであり、大変貴重な資料です。
当時の税制は主に租・庸・調・雑徭と呼ばれ、租は口分田に課せられた税で、調は常陸国では布や海産物を納め、年に10日の労働である庸についても常陸国では布を代わりに納めていました。雑徭は地方役人のもとで年間60日働くことで、このほかにも公出挙や兵役・仕丁など様々な負担が農民に課せられました。     『大野村史』より
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第34回 風土記の郷④-新旧の郡の役所の謎

2017/04/25


奈良時代の地誌『常陸国風土記』には「香島の神の社の南に郡家がある。また北に沼尾の池がある。古老が言うには……この地は以前郡家の置かれていた処である。……」と記載されています。この記載によって郡の役所は沼尾周辺から神宮の南に移転したことがわかります。神宮の南の役所跡は昭和59年に神野向遺跡と特定できましたが、前の郡家の具体的な場所の特定はできていません。何カ所かの候補がありますが、本当の場所はどこでしょうか。そして何年にどんな背景があって移転したのでしょうか。謎につつまれています。


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第33回 風土記の郷③-今も昔も鉄づくりの街

2017/04/25


 奈良時代の地誌『常陸国風土記』には「慶雲元年(704)国司が鍛冶師を連れて若松の浜で浜砂鉄を採り、これで剣を造った。この若松の浦(若松の浜周辺の浦)は常陸・下総両国の国境であり、その若松の浦の安是の湖(利根川河口周辺)に産する砂鉄は剣を造るとたいそう良く切れる。しかしながら、そこは香島の神の神域にあたるので、松を伐採したり砂鉄を掘ることはできない」と記載されています。当時の製鉄は多くの木炭と砂鉄を使用したので、原料を揃える意味でも香島の神域(神郡)は製鉄に適した場所であったと考えられます。風土記に記載されている製鉄遺跡の特定はできませんが春内遺跡や片岡遺跡など市内にはこの時代の製鉄関連遺跡が多数見つかっています。


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第32回 風土記の郷②-墨書土器「方野【かたの】 方 村」

2017/04/25


奈良時代の地誌『常陸国風土記』の鹿嶋の部分には「東と西が海に面して峰や谷が入り組む中に村里が点在しています。(中略)春には花が咲きにおい、秋には木々が紅葉して錦を織りなしている仙人の住む神秘的な地であります」と記されています。
今回はこのように郷の豊かな景色のうちの1つである方野村の地名が書かれた土器を紹介します。土器は奈良時代の竪穴住居跡から出土しました。須恵器と呼ばれる窯で焼かれた青灰色の土器で、高台の付いていない盤の外側の底に「方野 方 村」と墨で書かれていました。この土器の見つかった場所は現在の国道51号バイパス「厨台」交差点の東側100m位の地点です。
「方」とか「方野」と書かれた土器はこれまでに厨台遺跡群では3点見つかっています。現在でもすぐ近くに片野という地名が残っています。風土記の中に鹿嶋の風光明媚な様子が記載され、古代から人の住みやすい土地であったことが想像されます。


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第31回 風土記の郷①-墨書土器「鹿嶋郷長」

2017/04/25

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第30回 古代の税金? ~神野向遺跡から見つかった炭化米~

2017/04/25
 ついこの間までお米で税金を納めていたことをみなさんはご存知ですか。
奈良・平安時代の郡の役所跡である神野向遺跡の大溝からたくさんの炭化材や炭化米が見つかっています。大溝は税として納められた米を入れておく倉庫域の周囲を取り囲むものでした。この大溝から炭化米が見つかったことにより、倉庫が火災を受けたことが想像されます。
645年「大化の改新」によって全ての土地と人民は戸籍の整備等により国家管理体制となり、646年「班田収授法」により人々に「口分田」(くぶんでん)と呼ばれる農地を与える代わりに、収穫した稲の約3%を「租」として国家に納めることとしました。つまり、律令国家の財源は人々を戸籍に登録し、税を負担させることによって成り立っていました。
「班田収授法」に始まった米を税として納めるしくみは、世の中を治める人や社会が替わっていく中で、1837年(明治6)「地租改正法」が公布されるまで約1200年続きました。
そして神野向遺跡の大溝から見つかっている炭化米は租税そのものでしょう。

 


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第29回 古代のはんこ ~銅印「福」~

2017/04/25
おめでたい字「福」の銅製の印を紹介するよ。

印は鹿島郡家(かしまぐうけ)という奈良~平安時代の鹿島郡の役所である神野向遺跡の食膳を担当する厨家(くりや)地域から見つかった。3.3cmの方形で高さは3.7cm、鈕の部分は少しゆがんでいる。
現代社会でも必要で大切な印章は古代律令社会でも同じ。古代の印は何種類もあって、内印(天皇御璽)が一番大きく格が上。大きさはその格で厳密に規定されていたんだ。常陸国印は見つかってないけど、奈良正倉院の文書から印影を知ることができるよ。「福」印の詳しい性格はわからないけど、当時の大切な印であることは確か。大きさからみると郡印(方約4.7cm)より小さいんだ。
実物はどきどきセンターにあるから、見に来てね。

 


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第28回 「私も読めた奈良・平安時代の墨書土器」

2017/04/25
 鹿島郡家(かしまぐうけ)って知ってますか?奈良~平安時代の鹿島郡の役所のことです。古代の役所は実質的に政治を行う政庁(せいちょう)と郡内から集められた租税稲を収納した倉庫群正倉(しょうそう)、役所の食膳を担当する厨家(くりや)とに分かれていました。
今日紹介する墨書土器はその厨家から見つかった土器「鹿厨」と「神宮」です。当時の食器である土器の底に墨ではっきりと書いてあります。1200年も前の文字が自分でも読めるなんて感動ですね。
役所のあとからは、このほかにもたくさんの墨書土器や瓦、銅印「福」も見つかっています。



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