北浦から入り込む谷に面した台地(鹿島神宮駅の北側)に展開する縄文時代から近世まで続く複合遺跡で、谷をはさんだ南に存在する鹿島神宮との関係が重要な遺跡です。現在は51号バイパスが開通し、区画整理が行われ変わってしまいましたが、かつては緑豊かな台地が広がっていました。
縄文時代中期の集落の跡は台地の南側や縁辺部に集中して見つかっています。集落は竪穴住居跡や袋状土坑、掘立柱建物跡などが何度も同じ場所に造られたため、夥しい数の遺構が重複した状態でありました。それらの住居跡や土坑から出土した縄文土器や石器などは膨大な点数を数えます。厨台に人が住んでいた痕跡で最も旧いものは円龍台地区の縄文時代早期の集石遺構や、谷の最も奥の台地に広がる縄文時代早期の集落である常陸伏見遺跡です。 弥生時代は円龍台地区から少量の土器片が見つかっていますが、集落跡としての遺構はまだ見つかっていません。
古墳時代以降もさかんに集落が形成され、奈良時代・平安時代の集落からは「鹿嶋郷長」や「方野村」「中臣宅成」「神厨」「山前」などの墨書土器や「申田・左右」の線刻のされた紡錘車(ぼうすいしゃ)など出土しており、鹿島神宮や鹿島郡家(ぐうけ)の存在が大きく影響していると思われます。 中世(鎌倉・室町時代)から近世(江戸時代)にかけては集落や墓域が形成されていました。
このように、発掘調査によって厨台遺跡群は縄文時代から現代まで長い間土地が盛んに利用されてきたことがわかります。
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