市内史跡めぐり

第16回 「急々如律令」 呪符木簡

2017/04/25

みなさん安倍晴明を知っていますか。このごろブームの陰陽道。鹿嶋でも行われていたんだよ。
鉢形地区や爪木地区の条里遺跡(田んぼの跡)から見つかった木簡に「急々如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう)と書かれていたんだ。
「急げ急げ律令の如く」つまり「法令に従って速やかに実行せよ」って意味。この文句はもともと中国で漢の時代に公文書の書止めに使われていたんだ。
鉢形から見つかった木簡のもう片面には「蘇民将来子孫也」(そみんしょうらいしそんなり)と書かれていたんだ。この蘇民将来とは備後国風土記に出てくる伝説上の人物で、北国に住む武塔の神が妻となる女性を探しに南の国に赴いたら途中で日が暮れてしまった。そこで蘇民将来と巨旦将来に一夜の宿を求めたら裕福な弟巨旦は断り、貧乏な蘇民は歓迎した。武塔の神は帰路再び巨旦の家に寄りそこで働く蘇民の娘に「蘇民将来子孫也」と書かれた木簡と茅の輪を与え、この娘を残して巨旦将来一族を滅ぼしてしまった。つまりこの木簡を身につけたり家屋の入り口に付けることで自分は蘇民将来の子孫なので武塔の神が起こしたような仕打ち(疫病・災難)から免れることができるようにと願ったんだ。
使われていた時代は多分一緒に見つかったものから推測して中世?低湿地に埋まっていたから朽ちなかったんだ。
でもどうして水田からこんな呪符(じゅふ)が見つかったのかな。稲の病害虫除けかな。豊作祈願かな。


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第15回 冥府に散る花 -日光山古墳群出土直刀-

2017/04/25

 
前回に続いてお墓の話。埴輪が古墳を守る一族の象徴なら、石棺に納められた副葬品は、冥府(冥土)に向かう死者の精神的な象徴でもある。
図は津賀の日光山古墳群(13基)の10号墳から出土した鉄の直刀。10号墳は全長約26mの前方後円墳で、後円部の径が約18m、高さは2.3m、前方部長が8m、高さは1mあるんだ。主体部〔死者を埋葬したところ〕は後円部南側裾に検出された箱式石棺で、内からは人骨と直刀4振り、鉄鏃(やじり)が20本も見つかっているんだ。刀と弓矢は武器だから、亡くなった人は戦で活躍した武人だったのかも。生きているときに活躍した証を、冥土の土産にもっていこうとしたのかな。実はこの刀、鍔のところに象嵌といって、鉄地に彫刻して金とか銀を埋め込んだ貴重なものなんだ。今は錆びているけど初めはピカピカ光ってきれいだったと思うよ。レントゲン撮影でわかったんだけど、象嵌の模様は「の」の字に似ていて、もちろん鹿嶋では初めての発見。古墳の埋葬者は地域の中でも有力な豪族と考えられているから、日光山に埋葬された人々は華も実もある、津賀地区を支配した実力者だったんだろうね。 


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第14回 時代を見つめる眼差し・・・人物埴輪・・・

2017/04/25

以前出土したときのことを市の広報誌で紹介したことのある埴輪である。出土地は大野支所の西方約0.5kmにある二子塚古墳。全長約20mの前方後円墳のくびれ部から、馬の埴輪などといっしょに出土したもので、残っていたのは顔だけで躰の部分は見つかっていない。やや面長の顔の長さは約18cm、中は中空で土器の厚さは約20mmと厚く、耳の部分は省略されて直径6mm程の孔が開いている。額には粘土紐が廻り、帽子か冑を表しているようである。首には飾りの玉がつけられているが、男性の農夫か兵士と思われる。目と口は穴があけられて、ちょっと寂しげで、少しばかり憂いのある目元、そして何か言いたそうな口元、その表情は凛としているが穏やかそうである。
もともと埴輪は古墳の葬送儀礼のために作られたもので、神聖な墓域を区画するための標識のようなものと考えられているんだ。素朴なつくりは牧歌的で古代の風俗や生活を表現しているといわれ、情感的で稚拙な美しさを持っている。1500年もの時代を越え、未来の世界に現れた埴輪。どこか遠くを見つめているようなまなざしは何を物語っているのだろうか。

 


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第13回 縄文人のメッセージ?縄文土器深鉢形土器

2017/04/25


やあ、こんにちは。今回もちょっと珍しいものを紹介します。発掘調査では時おり何千年も前に作られた土器が、まったく無傷で出土することがあるんだけど、これを完形土器と呼んでいます。写真の土器は平成3年3月、片岡の個人住宅の調査で見つかった完形の縄文土器。直径が40cm、深さが140cmの穴の途中に、壁に寄り添うように立った状態で検出されました。中にはサラサラした土と小さな骨片が入っていたから、きっと骨壺に使ったんだろうね。黒っぽい表面には縄文と、ブタの鼻のような突起、それとなにやら記号めいた模様がつけてある。「X」と横にした「U」に似ているんだけど、よく見ると、微妙に組み合わせが違っているように見えるんだけど、皆さんにはどう見えるかな。この土器は今から約3000年前の縄文時代後期〔安行式〕の頃のもので、この時代にはまだ文字が使われていた証拠はないんだけど、縄文人の優れた技術や高い精神性を表す絵や土器は残されているんだから、きっと言葉や文字に変わるもの、たとえば記号かなんかもあったかもしれないね。もしこの模様が墓碑銘のような文字で、縄文人のメッセージだとしたら、そして解読できたら、日本中がアッ、と驚く大発見だよ。


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第12回 縄文人は未来志向!?注口土器

2017/04/25


縄文時代っていうのは1万年以上も続いていたんだけど、やっぱりその時代には、その時代の流行があって、縄文人はその流行にとっても敏感だったんだ。どんな方法で情報を手に入れたのかはまだわかっていないけど、遠いところで取れるものでも手に入れているから不思議なんだ。物ばかりでなくファッションの流行だってちゃんと取り入れている。写真の土器は前回の土器と同じ片岡遺跡から出土したもので、年代もほぼ同じ約3000年以上前のもの。このヤカン形の土器、把手こそ付いていないけど、どう見たって現代のヤカンにそっくりでしょ。しかもデザインや機能は今のものと殆ど変わらない。土器の体部はテカテカ光沢を帯びるほど丁寧に磨かれているんだ。そして表面には細い竹のようなもので渦巻きか襷のような模様が描かれている。注口土器って言うんだけど、名前のとおりヤカンのような注ぎ口が付いている。お酒か何か飲み物でも入れて、お祭とか儀式のときにでも使って飲んだのかなー。いっしょに出てきた土器も四角い皿や亀の甲羅のような不思議な形をしたものが多くいので、この土器も普通の土器ではないと考えられているんだ。


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第11回 子孫繁栄を祈る・・・子持勾玉

2017/04/25
 今回紹介するのはコレ。なんだかわかるかな。孔が眼のように見えるので鳥のくちばしかウリ坊(猪の子ども)、はたまた魚のようにも見えるなんともヘンテコリンな奇妙な形でしょ。実はこれ滑石という柔らかで加工し易い石で作られた子持勾玉という石の製品である。言葉のとおり腹や背中、両脇のほうまで簡略化した小型の勾玉が幾つもぶら下げるように付けられている。まるで映画に出てくるゴジラのミニチュア版のようだね。古墳の副葬品や祭祀の遺跡から出土しているものが多く、神を祭る儀式、あるいは使者を送る儀式に使われたものだろうと推定されているンだけれど、本当のところは分かっていないんだ。でも自然に依存することが多い昔のことだから、子孫繁栄や食料である自然の恵みが増えるようにと、古代の人々が神(自然)やなくなった人の魂に祈りをささげるときに使ったんだろうね。
呪術的な性格を持つ道具と思われる勾玉は、彎曲した体の一端に穴をあけたもので、縄文時代からある日本独自の玉の形で、紐をつけて首から吊り下げる装身具と考えられているんだ。昔は頭の端を嘴形に彫刻し、孔を目とする鳥の頭になぞらえたもの、江戸時代には石剣頭(刀剣の把頭)とする珍説もあったんだよ。『日本書紀』には「勾玉」、『古事記』には「曲玉」と書かれているから、ずうっと昔から使われてきたんだね。大昔の祭祀や信仰の生活は今も形を変えて続いている。

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第10回 歴史の糸を紡ぐ紡錘車

2017/04/25


延べ25年も続いた厨台遺跡の発掘調査では、さまざまなものが見つかっている。これは平安時代の竪穴式住居跡から見つかった滑石製紡錘車。直径4.3cm、厚さ1.8cm。重さ52g。中央に9mmの貫通孔があいている。紡錘車は糸を紡ぐとき回転によって糸に縒りをかける画期的な道具なんだ。弥生時代に韓国から稲作文化と共に日本に渡ってきたらしい。土製や鉄製、石製だけでなく土器の破片に穴をあけて作ったり、中には鹿やクジラの骨で作ったものまであるんだ。円盤形や算盤玉形など形も大きさも様々だけど、どれも真ん中に心棒を通す穴があいてる。この穴がヘソのように見えることから昔はへそ石なんて呼ばれていたんだって。今でもアンデスの方ではラマの毛を紡ぐのにインディオの女性が使っているのが見られるよ。

さてこの紡錘車。よく見ると傷のように見えるけど文字が書いてあるんだ。「申田」「左」と読める。側面にも「右・左」の文字があり、使い方を間違えないように方向を書いたのかな。「申」の字の下が曲がっていて「申」も[田」も上に「雨」カンムリが省略されている、と神宮の人が話していたけど、「電・雷」だったらすごく強そうだね。それにしても鹿島神宮に所蔵されている銅印と同じ文字というのは、厨台遺跡と神宮はきっと何か関係があるんだろうね。


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第9回 -耳輪物語-

2017/04/25


ロード・オブ・ザ・リングという映画が好評だそうで、指にはめると不思議な力を手にすることができる、指輪をめぐる物語ですが、こちらの写真は同じリングでも指輪ならぬ耳輪(耳環)、イヤリングです。宮中野古墳群にある大塚古墳の石室から出土したもので、今でこそ男性がピアスやイヤリングをしても、流行の先端とカッコヨクみられますが、古代ファッショナブルなのは男子、しかも権力者である豪族や王族の様なごく一部の人間に限られていたんです。いわば権力の象徴、自分の力を誇示するシンボルだったんでしょうね。大塚古墳の石室の壁には赤い朱が塗られ、中に安置された棺には金銀に輝く弓や直刀など豪華な武器が副葬されていました。(正確には、いるはずでした。)時の権力者である被葬者は、豪華な金銀に囲まれて永遠の眠りにつくはずでした。ところが、いつの世か、誰か心ない者がその室をこじ開け、しかも埋葬されたものすべてをことごとく破壊しつくしてしまったのです。リングは石室の片隅に、忘れられたように残されていました。何のために、ここまでやる必要があったのでしょうか。棺の蓋は開けられたのに、謎の闇は深まるばかり、未来に残されたリングの物語は果てしなく続いていくようです。


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第8回 塚に入ってきたお地蔵さん

2017/04/25

今回紹介するのは小さな小さなお地蔵サン。昭和48、9年頃鉢形神宮寺の経塚から工事中に発見されたものですが、発見されたときの詳しい状況は不明です。このお地蔵さん正確には銅製地蔵菩薩立像と呼ばれています。像の高さは7cm(台座を含めても8.2cm)、台座とともに一度に鋳造されたものです。作られた当時は光り輝いていたと思われますが、像の表面に金を塗った様子はなく、今は緑青(銅のさび)に覆われています。顔面は深く均整のとれた体部に、浅く細かい線で衣の模様が、流れるように表現されています。形は小さいながら制作技術はとても優れた仏像です。大衣に右手を垂下している様子は比較的古いタイプで、制作されたのは平安時代後期11世紀頃と考えられています。
経塚は経筒(お経を入れた筒)などを埋めた塚のことで、塚の中からはこのお地蔵さんの他に銅製の錫杖(しゃくじょう)や五鈷鈴(ごこれい)など、密教で使う道具も見つかっています。


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第7回 ~地鎮の祈り~ 輪宝土版 “八鋒輪宝”

2017/04/25

 

半円形にまっぷたつにされた黒い土盤、なにやら不思議な模様が描かれているけどこれは八鋒輪宝(はっぽうりんぽう)と呼ばれる土で焼かれた土版です。
輪宝は古代インドの理想の国王とされた転輪聖王の七宝の一つ、車輪形をした密教法具で王様の遊行(ゆぎょう:説法をしてまわる)時には、回転して対抗する敵をやっつけたんだって。
写真(図)は昭和59年(1984)鹿島城の発掘調査で堀跡から出土した輪宝の土版で、直径が18.8cm、厚さが1.9cm、同心円の周縁に鋒形が鋭く四本(もとは八本)浮き彫りされて、精巧な金属の感じを表しています。制作年代は周りから出土した土器などから15~16世紀と考えられています。この他にも3片見つかっていますが接合できませんでした。
使用目的ははっきりしないけど、地鎮祭の時に使われた道具だろうということです。地鎮祭は道路建設や工事現場で偉い人たちがスコップを持って土を盛ったりしているのを見かけたことがあると思うけど、工事や作業の安全を祈願する儀式なんだ。昔は殿様が住む場所が凶で縁起の悪い場所だったりしたら困るというわけで、縁起のいい吉の場所の土と入れ替えたり、邪気を祓うためにも、お城のような大きな土木工事では欠かせない儀式だったようです。

 


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