市内の片岡遺跡から出土した縄文式土器の模様で、お買い物のマイバックにピッタリです。
頒布価格 500円(税込)
☎0299-84-0778
カテゴリ:埋文ニュース
待望のどきどきセンター公式ツイッターを開設しました。
これから、どきどきセンターの施設・イベント情報のほか、鹿嶋市内の遺跡や発掘で出土した遺構・遺物について紹介していきます!
若手職員が鋭意努力しておりますので、ぜひご笑覧ください。よろしくお願いします。
【URL】https://twitter.com/kashima_doki
詳しくは鹿嶋市どきどきセンターまでお問い合わせください。 ☎0299-84-0778
縄文時代晩期(およそ2500年前)になると土器は日本列島の東西で差が明確に出てきます。西・南日本は無文化・単純化した文様になり、東日本は東北を中心に流麗な文様の亀ヶ岡式(大洞式)の影響を受けた豊富な器種の土器がみられます。 鹿嶋市の晩期の遺跡は神野遺跡があげられます。神野遺跡からは安行式土器や亀ヶ岡式の影響を受けた土器が見つかっています。土器の厚さは薄いものが多く、文様は繊細です。雲形の文様など東北地方で多く見つかる土器の影響を受けた土器が鹿嶋でも見つかることは、東北地方と交流があったことも推測できます。 晩期の最終末には西南日本の一部では稲作が開始され、土器は単純・簡素化し種類も少なくなりました。鹿嶋市では晩期終末から弥生時代前期の遺跡は現在のところ見つかっておらず、使用していた土器など詳細なことはわかっていません。 全6回の駆け足で鹿嶋の縄文土器のうつりかわりを紹介しました。ここで紹介した土器は鹿嶋市どきどきセンターに展示しておりますので、ぜひ見学におこしください。
縄文時代後期(およそ3000年前)になると土器の文様は繊細になり、装飾的なものから機能的なものへと変化していきます。注ぎ口のある急須のような形をした注口土器が一般化し、液体を貯蔵する壺も定着しました。また、美しく飾られた土器(精製土器)と文様の少ない土器(粗製土器)のはっきりとした区別もでき、作りわけられました。精製土器の形はバラエティに富んで、釣手形土器、香炉形土器など器種は豊かとなります。 鹿嶋市の後期の遺跡としては、神野遺跡・片岡遺跡・神野向遺跡があげられます。これらの遺跡からは堀之内式・加曽利B式・安行式などの土器が見つかっています。 堀之内式土器は、縄文を付けた後に渦巻や三角形や菱形の幾何学的な文様を線で付ける複雑な文様構成です。この堀之内式土器は分布圏が広く関東一円のみならず東北南部から近畿地方まで広がっています。 次に続く加曽利B式は、精製土器・半粗製土器・粗製土器と大きく3種類に分けられ用途を異にしていたと考えられます。 後期の最終段階の安行式は、粗製土器と精製土器がはっきりと分かれていて、精製土器には瘤が付きます。安行式土器は前半が後期、後半が晩期に分けられ、東北地方の影響を多く受けています。
※コラム : 堀之内式などの土器型式は年代や広がりを表す「ものさし」のようなもので、標準となった資料の見つかった遺跡名(標式遺跡)から名前を付けています。
縄文時代中期に入ると土器の文様や装飾は豊かになり、東日本では飛躍的に遺跡数が増えます。中部地方や関東地方の中期前葉・中葉の土器には装飾の多い華やかで立体的な土器があり、口縁部を炎の様に飾ったいわゆる火炎土器が有名です。 中期の前葉・中葉の頃、関東地方東部を中心とする地域に分布する阿玉台式と呼ばれる土器様式があります。阿玉台式土器は、特徴として胎土中に金雲母片を混入しているため土器の表面がキラキラ輝いています。 後半になると加曽利E式土器と呼ばれる口縁部が丸くふくらむ深鉢が現われ、文様はしだいに簡素化されていきます。加曽利E式土器は関東全域と分布圏が広がっていました。 阿玉台式土器・加曽利E式土器は鹿嶋市では、田野辺のミシマ遺跡、宮中の厨台遺跡群を始めとする縄文時代中期の遺跡から見つかり、他の地域の影響を受けている土器も混在しています。
今から約6,000年前の縄文時代前期になると、土器の底の形は尖った底から丸底になり、平底の深鉢形土器が一般的になります。また、煮炊き用の深鉢形土器の他に、盛りつけ用としての浅鉢形土器・台付き土器も出現します。この時期は「縄文」の文様の最盛期であり、複雑な撚りを加えた豊かな縄の文様が発達します。 前期前半の土器を見ると割れ口が黒くなっているものがあります。これらの土器の胎土には繊維が含まれており、前期中頃には繊維の混入がなくなり、硬い焼き具合となります。 後半になると鹿嶋市域では貝殻を用いたて文様を付けた土器や、シノダケのような細い管状の工具を使う「竹管文」が主役となり発達します。 鹿嶋市の前期の遺跡としては、鹿嶋市田野辺のマツサキ遺跡や鉢形の内畑遺跡が著名です。
最初の縄文土器である草創期の土器は、鹿嶋では見つかっていません。次に続く早期は、「縄文海進」がみられ始めた時期で、土器の多くは、底が尖っているのが特徴で、尖底土器と呼ばれ、土器を炉に立てたり、周りを石で支えたりして使ったと考えられています。 文様は、細い糸を撚って木の棒に巻き付けたものを回転させた撚糸文系土器、楕円形や山形の刻みをつけた棒を転がした押型文系土器、土器の表面に貝殻や棒で文様を描いた貝殻・沈線文系土器・ギザギザになっている貝殻の縁を使って条線を引いた条痕文系土器などがあります。条痕文系土器には植物繊維が混入しているため、土器の断面が黒くなっているのが特徴です。 鹿嶋市の早期の遺跡としては、鹿嶋市宮中に所在する伏見遺跡が著名で、前葉の撚糸文系の土器と、中・後葉の貝殻・沈線文系の土器が多く見つかっています。他には、高尾﨑遺跡、西谷A遺跡、マツサキ遺跡、厨台遺跡群からも早期の土器が見つかっています。
今年度の「かしまのざくざく」は縄文土器のうつりかわりについて鹿嶋の遺跡を中心に紹介します。
縄文土器の由来は、明治時代、アメリカ人のモース博士が日本で初めて東京都品川区大森貝塚を調査し、そこから出土した土器に命名したことからであります。モースは、縄目の土器をみて「cord marked pottery」と名付け、これを「縄文土器」として訳し、その後、一般的に使われるようになりました。 土器は可塑性を持つ粘土を材料として形をつくり、焼き上げた容器のことで、他の遺物と比べて形や文様がいろいろ変化し、出土する量も多いので、時代や地域による違いと変化を詳しくみることができます。 また、時代によって形や文様に変化が多いので、縄文土器を六つの時期に大きく区別し、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と呼んでいます。 最初の縄文土器である草創期の土器は、煮炊き用の土器で、平底と丸底の2タイプがあります。しかし、現在のところ鹿嶋では草創期の土器は見つかっていません。現在見つかっている鹿嶋で最も古い土器は早期の土器です。 早期の土器については次回をお楽しみに。
奈良時代の地誌である『常陸国風土記』には角折の地名の由来が二説載っています。 一つは昔この地に大蛇が棲んでいて、東方にある海(鹿島灘)に出ようと思い浜に穴を掘っていたときに大蛇の角が折れて落ちたため、角折と付けた説。もう一つは別の人が言っているとして、倭武の天皇がこの浜で仮の宿をおとりになる際、お食事をさし上げようとしたところお飲みになる水が全くなかったので鹿の角を手にして地面を掘ったところ、その角が折れてしまったので名付けた説です。 鹿嶋市内には風土記に遺されている地名が幾つかありますが、地名由来の説話が記されているのは角折だけです。 風土記は奈良時代に国別に編纂されましたが、まとまったかたちで残っているのは常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五カ国です。『常陸国風土記』は真壁郡や河内郡の記事を欠きますが、地名起源説話や伝承など奈良時代の貴重な史料です。
奈良時代の鹿嶋市域は六つの郷(松浦まつうら・鹿嶋かしま・高家たけい・潴尾ぬまお・中村なかむら・下鳥しもとり)に分かれていました。今回はその中の「高家郷」の名の記載された奈良東大寺正倉院に残る白布を紹介します。白布(写真)は曝布(さらしぬの)で麻布であり、調布(税)として郡家・国府を経て奈良の都に送られたものです。白布には墨で天平勝宝四年(752年)の十月に常陸国鹿嶋郡高家郷(今の武井周辺)の戸主が占部手志、占部鳥磨が作り納められた曝布壱端であることや、担当の国・郡の役人の名前が書かれ、常陸国司の印が押されていました。常陸国印の印影はこの資料が唯一のものであり、大変貴重な資料です。 当時の税制は主に租・庸・調・雑徭と呼ばれ、租は口分田に課せられた税で、調は常陸国では布や海産物を納め、年に10日の労働である庸についても常陸国では布を代わりに納めていました。雑徭は地方役人のもとで年間60日働くことで、このほかにも公出挙や兵役・仕丁など様々な負担が農民に課せられました。 『大野村史』より 拡大表示