鹿嶋の歴史 「中世・近世編」 連載4回

2017/04/25

 
鹿島神宮では大祢宜(おおねぎ)の上に立つのが大宮司(だいぐうじ)です。大宮司職を勤めるのは、中臣(なかとみ)()大中(おおなか)(とみ)()であり、次期大宮司職を決める際、どちらが就くか、だれが就くかで紛糾する場合もありました。
 また、大祢宜が鹿島・行方郡で寄進された社領からの年貢を収益としていた反面、大宮司の収益は常陸国内に散在する「宮地(みやち)」「神田(しんでん)」、畜産家からの「弊馬(へいば)」、漁労者の「立網(たちあみ)」「引網(ひきあみ)」の管理権など、母体の多くが不明確なものから得ていました。そのため、大宮司の経済的基盤は弱かったのです。荘園制が展開される鎌倉時代において、鹿島神宮内部での大宮司と大祢宜の地位は、経済面だけで見ると大祢宜が優勢でした。
 その大宮司の弱点を突いたのが鹿島(そう)大行事(だいぎょうじ)家による祭祀(さいし)権の押領事件でした。
 建長7年(12556月、大宮司・中臣則雄(のりかつ)が亡くなった時、鹿島神宮周辺の地頭であり、さらに神宮の惣大行事である鹿島忠幹(ただもと)が、大宮司不在の隙を突いて七月大祭を主宰してしまいました。
 常陸平氏である鹿島氏は、この大祭において7年に一度巡ってくる大使役という重職を勤める一族でしたが、主宰する権限まではありません。さらに忠幹の子、幹景(もとかげ)は大宮司が祭礼で指揮を執る桟敷(さじき)まで奪ってしまいました。ここは精進(しょうじん)潔斎(けっさい)した大宮司だけが座れる特別な場所でした。
 源頼朝の時代から、鹿島氏などの常陸平氏が鹿島神宮の権利を侵害したのは、主に大祢宜の社領経営が目的でした。それに加え、今度は大宮司の権限も狙おうとしました。これは鹿島神宮の経済的権利ばかりでなく、宗教的権威まで入手しようと図ったためです。

鹿島氏の横暴に対して、他の神職や常陸国衙(こくが)から猛反対が起きました。そして、大宮司となった中臣則光は、このことを藤原摂関家に訴えました。
 鹿島氏が任命されていた惣大行事は鹿島神宮の治安を守る目的で、養和元年(1181)に頼朝が新たに設置した神職です。しかし、武力を背景としている以上、神宮の中枢を狙うのは必然的。鹿島神宮と武士との対立は鎌倉時代を通じて繰り返されました。

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