鹿嶋の歴史 「中世・近世編」 連載3回

2017/04/25


寿永(じゅえい)二年(1183)、源頼朝の叔父の志田義広が、頼朝に反乱を起こしました。このころ、頼朝は鎌倉を拠点として、関東の武士たちを集め、平家打倒の作戦中であっただけでなく、関東の反頼朝勢力を鎮圧する時期でした。頼朝の挙兵から平家滅亡までの過程において、敵は平家だけではありませんでした。関東武士のなかでも、しかも同じ源氏でも、頼朝を棟梁(とうりょう)と認めていない者も多かったのです。
義広に同調した者の多くは常陸の武士であり、そのひとりが常陸平氏の下妻広幹でした。しかし、義広は頼朝の信頼厚い御家人・下河辺行平(しもこうべゆきひら)に討たれます。義広側の武士は領地を没収され、その後には他国の、頼朝の御家人たちが続々と進出し、常陸国は見渡す限りの草刈り場と化してしまったのです。
一方、広幹も橘郷を含む南郡(小美玉市から行方市・かすみがうら市の北部)の領地を没収され、広幹に代わって支配したのが惣地頭(そうじとう)の下河辺政義(行平の弟)です。下河辺氏はもともと下総国下河辺荘(古河市から春日部市一帯)を拠点とする小山氏の一族で、藤原氏系の武士です。その領主交替の影響は、橘郷を社領としていた鹿島神宮にも及びました。
元暦(げんりゃく)元年(1184)、鹿島神宮の大祢宜(おおねぎ)(神職の職名のひとつ)・中臣親広と政義が土地を巡り対立、翌二年、頼朝は詮議(せんぎ)のため、親広と政義を鎌倉に召喚してそれぞれの言い分を詰問しました。親広は、「政義が郷内の百姓妻子を束縛し、さらに神宮の神事を妨害した」と頼朝に訴え、一方の政義は、「それらは家来の勝手な振る舞いである」と答えました。結果は親広の勝訴。頼朝にとって政義は庇護(ひご)すべき御家人でしたが、政義よりも鹿島神宮の親広の言い分を認めたのでした。
詮議のあと、政義はその場に伏したままでいました。頼朝が理由を尋ねると、政義は「鹿島神宮は武士の守護神であり、とても逆らうことはできない」と答えたといいます。これは当時の鹿島神宮に対する武士の率直な気持ちの表れでしょう。頼朝が崇敬するのと同様、御家人たちも鹿島神宮を厚く信仰していました。しかし、この後も鹿島神宮と地頭である武士との争いは続きました。
※写真は橘郷の土地を巡る抗争に対して、源頼朝が鹿島神宮側有利の裁定を下した時の文書
「鹿島神宮文書」(鹿嶋市指定文化財)。

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