鹿嶋の歴史 「中世・近世編」 連載5回
2017/04/25浄土真宗の開祖・親鸞と茨城の関係は深く、建保二年(1214)に配流地の越後国(新潟県)より常陸国に入り、天福年間に帰洛するまでの約二十年間を過ごしました。この間に下妻、稲田(笠間市)などを拠点に布教を進めました。親鸞の思想の新しさは、罪を犯す人間の悪の面に真摯に向き合ったことです。それゆえ、悪を抱えたままでも、阿弥陀の本願を信じれば、かならず救われると説きました。親鸞が向かうところでは、各地で布教の拠点が形成されていきました。鹿嶋地方では鳥栖(鉾田市)の無量寿寺がそれであり、後に弟子(親鸞は敢えて「同朋」と呼ぶ)の順信に委ねた寺院です。この順信は鹿島神宮の大宮司職を輩出する大中臣氏出身とされています。無量寿寺を核に形成されたのが鹿島門徒です。
では、なぜ、親鸞は鹿嶋を目指したのでしょうか。それは親鸞が常陸国に来た理由と密接に関係すると思われるからです。親鸞は当時の僧侶をとしては異例ともいうべき公然と妻子を伴っていました。布教を進め、妻子を養い、妻子共々支援と活動の理解を得られやすい環境が必要であったのです。近年の研究では、布教の大きな拠点となった稲田の背後には、同じ法然の兄弟弟子を有する宇都宮氏が控えていること、また、至近距離には、小鶴荘(茨城町から笠間市にかけての涸沼川流域一帯)があり、ここは妻恵信尼の父、三善為則が家司(貴族の家の事務官)を勤めた九条家の荘園だったことなどが指摘されています。親鸞は布教や研鑽の場として、計画的に常陸国を選び、ここに来たことが明らかにされつつあります。そのなかで、親鸞はたびたび鹿島神宮を訪れたようです。神宮には後に笠間時朝が一切経を奉納するように、多くの経典、仏典を所蔵する図書館的機能も備えていたようです。親鸞が自己の思想をまとめるに際して執筆するには、自身の優れた思考力・記憶力だけでは限界があり、それを補うためにも神宮に足繁く通ったのでしょう。その成果が元仁元年(1224)の主著『教行信証』の草稿成立です。この書は親鸞の主張ではなく、釈迦から師の法然に至る思想のエッセンスを集約したものであり、そのためにも参考すべき経典、仏典は不可欠でした。鹿嶋なしには親鸞思想の集成は難しかったといっても過言ではないでしょう。
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