鹿嶋の歴史 「中世・近世編」 連載2回
2017/04/25
古代(奈良・平安時代)にあって日本の政治の中心的氏族である藤原摂関家の氏神として広大な「鹿島社領」を持ち権勢を誇っていた鹿島神宮も武士の勃興により、権勢に陰りが見え始めた頃の治承4年(1180)8月17日、源頼朝が「平氏追討」のため伊豆の国衙(こくが)の目代(もくだい)(知行国主の代官)山木兼隆を討ち挙兵した。いったん石橋山で完敗したものの、真鶴(まなづる)岬から安房(あわ)に渡り体制を立て直し、10月に富士川の戦いで平維盛(たいらのこれもり)を破った頼朝は、ただちに佐竹攻めの軍を起こし、金砂(かなさ)合戦(かっせん)で佐竹秀義を破り関東の支配者となった。
頼朝は養和元年(1181)3月、旧佐竹領であった世谷(常陸太田市)・大窪(日立市)・塩浜郷(日立市)を鹿島神宮に寄進し、合わせて橘郷(小美玉市・行方市の一部)を寄進(所領安堵の一種)した。この社領の寄進が鎌倉幕府と神宮との出会いの始まりである。しかし、一方的に頼朝の寄進という行為があったわけではなく神宮側においても大宮司(だいぐうじ)家(け)と大禰宜(おおねぎ)家(け)との実権を巡る争いの中で頼朝に大禰宜家が密かに伊豆挙兵時の頼朝を応援していたことにもよる。
その後は頼朝による神馬(国重要文化財「梅竹蒔絵鞍」はこの神馬の鞍と見られる)、社領の寄進と追認など受け、在地武家勢力(地頭等)との抗争を引き起こしながらも、藤原氏等の貴族勢力に加え、頼朝やその後の鎌倉幕府、そしてそれに連なる武家勢力の崇敬を集めていった。
※写真は重要文化財に指定されている黒漆蒔金覆輪鞍(梅竹蒔絵鞍)です。
源頼朝が1191年(建久2年)に国の平和を祈って奉納した馬に添えられたと『吾妻鏡』に記されています。
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