鹿嶋の歴史 「中世・近世編」 連載1回

2017/04/25


現在、どきどきセンターでは、平成
183月に刊行した「図説 鹿嶋の歴史 原始・古代編」の続編として「中世・近世編」を本年11月刊行に向けて編集しております。本年度の「どきどきセンターニュース」では鎌倉時代から南北朝時代にかけて代表的な6タイトルを連載いたします。
 平安時代末期の関東地方は広大な荘園を所有するいくつもの武士集団(源氏・平氏)によって支配されていました。平氏の中で代表的な武士集団としては京の伊勢平氏(平清盛)・と常陸平氏(現在の茨城県の一部・千葉県の一部を支配)が有名です。
 鹿島氏は常陸平氏の常陸国内分立過程で平清幹(たいらのきよもと)の支配した吉田郡・行方郡・鹿島郡の内、三郎成幹(しげもと)に鹿島郡を支配させ成幹が鹿島氏を名乗ったことに始まります。しかし、成幹から鹿島郡惣領家を相続した鹿島政幹(まさもと)は治承4年(11803月、伊豆に平清盛を討つため挙兵した源頼朝は、東国武士団の帰属をはかったが佐竹氏は源氏でありながら清盛に味方した。鹿島氏は佐竹氏に従ったが佐竹氏が降伏しても頼朝は鹿島氏を処罰しなかった。
 鹿島政幹は帰順の意志を表明するために宗幹(むねもと)弘幹(ひろもと)兄弟に一族郎党一千余騎を附けて鎌倉へ送った。鹿島宗幹兄弟は源義経の軍に配属され、いくつかの戦で必死に戦うが「屋島の戦い」で、平教経(たいらののりつね)の軍と激突し、武運功なく戦死してしまう。その功あってか政幹は鹿島社(そう)追捕使(ついぶし)に任命され、鹿島郡惣領家を兼ね神領内の治安と仕置を執行する社家、後の鹿島惣大行事家が誕生したのであります。

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