鹿嶋の遺跡めぐり 連載6回
2017/04/25
国神遺跡は市役所の南方1.5kmの大字木滝に位置します。昭和57年から平成3年まで6回の発掘調査が行われ,縄文時代早期~近世にわたる遺跡であることがわかっています。特に約1900年前の弥生時代中期の土器はこれまでの鹿嶋市内で出土した弥生時代の土器の中では最も大きく,土器(どき)棺(かん)として使われたものです。
土器棺は死者を葬る際に遺体を一度焼いたり,簡単に埋めたりし,骨だけにして,再び埋葬する際に使われたものであり,現代で言う骨壺です。国神遺跡ではこれまでに5基の土器棺墓が見つかっています。
土器棺墓(SK14)では最大胴径が37cmある渦巻き模様の壺を使っていました。
また,土器棺墓(SK63)では,最大胴径が41cmある壺が2個組み合わせてあり,一つは縄目のある壺の胴部と,もう一つは底部がなく頸部(けいぶ)に斜格子目のある壺でした。
土器棺は,再葬墓(さいそうぼ)という日本の弥生時代前期から中期の代表的な文化であり,現代人からみると特異な葬法ですが,沖縄地方に見られる洗骨(せんこつ)もその風習の一種と考えられています。常陸大宮市の小野天(おのてん)神前(じんまえ)遺跡や下館市の女方(おざかた)遺跡など茨城県ではこの再葬墓に人面付土器が用いられる例もありますが,鹿嶋では人面付土器は見つかっていません。
地域や時代とともに葬法は変わっていますが,死者を悼み悲しみ,祈る気持ちは現代と変わっていないでしょう。
横に埋められていた土器棺墓 (SK14) |
2つの土器を重ねて埋められていた土器棺墓 (SK63) |
カテゴリ:鹿嶋の遺跡めぐり