市内史跡めぐり

条里遺跡(じょうりいせき) 

2017/04/25
北浦湖岸の低地には古代の条里(古代の土地区画制度の跡)が形成されていました。近年圃場整備に伴う調査が開始され、水田や畝・溝がみつかっています。台地上の遺跡から流入されたと思われる遺物も多く、また低湿地という条件から「田舟」など木製品が当時のまま腐らずに見つかっています。
出土した遺物には呪いに使ったと思われる「急々如律令」や「□蘇民将来子孫也」などの文字が書かれた呪府木簡が数点ふくまれていました。
△宮中条里 爪木地区調査風景 △爪木条里 調査風景
(土層確認と稲作をしていたかを調べるためのサンプル採集)

 


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国神遺跡 (くにがみいせき)

2017/04/25

国神遺跡は、鹿嶋市の南端部に位置し、標高31mの平坦な台地上にあります。
先土器時代から縄文時代早期~後期、弥生時代中期~後期、奈良時代・平安時代、中世、近世と断続的に長期にわたって集落が形成されてきた遺跡です。
調査では弥生時代中期の壺棺墓や時代不明の総柱建物(二間×五間)や塀、近世の溝など様々な遺構が見つかっていますが、その中でも中心は古墳時代後期の集落であり、遺構の重複関係から少なくとも3時期に区分されます。
最初はカマドを持たない炉の時期、次に住居の規模は多少小さいがカマドを持つようになる時期で稲作が盛んであったと推測されます。そして住居の規模が大きくなり貯蔵穴を持つ時期です。
見つかった遺物は日常の器である土器が中心ですが、壺の形は特徴的で、市内の厨台遺跡群の集落とも同時期と考えられます。 


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木滝台遺跡

2017/04/25
木滝台遺跡は、鹿嶋市の最南端で樹枝状に延びた台地上に営まれた集落遺跡です。
調査では、弥生時代後期から、古墳時代前期の五領期にかけての竪穴住居や土坑墓等が見つかっています。
集落の中央部を幅約2~4m、深さ1.5~2mの大きな溝が台地を分断するように南北に走り、台地端まで延びています。この大溝には壺や甕、甑、椀といった日常使用する土器以外にも、供献用と思われる高杯や器台、さらには手捏ね土器や土製勾玉等、特殊なものも見られます。また、甕に入った貝殻や魚の骨、小動物の骨、植物の種などの食物に関連した自然遺物も見つかり、村落共同体の祭祀を行った可能性が強いです。
大溝の両側には柱穴群があり、橋脚あるいは上屋施設があったことも指摘されています。
その他には石蓋や、粘土槨を有する土坑墓、黒色の土製勾玉が出土した土坑などが見つかっています。

木滝台遺跡からみつかった土器

木滝台遺跡からみつかった土器

 


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鉢形神宮寺経塚

2017/04/25

昭和49年に鉢形地区で行われた神宮寺と考えられる遺跡の調査後にその近辺で見つかった経塚です。現在は塚は壊されてしまってありません。茨城県内で見つかった経塚は三十数ヶ所ありますが、ほとんどの経塚は工事等で見つかり掘り起こされてしまって現在残っているのは遺物だけという例が多く、この塚もそうです。
高さ30.5cmの経筒、高さ8.2cmの銅地蔵菩薩立像、銅製五鈷鈴、長さ15.6cmの鉄製独鈷杵、先端部を欠損した鉄製小刀、ハート形の輪形の頂上に宝塔形をのせた銅錫杖頭、菊花の銅製装金具が見つかっています。

 


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神野遺跡

2017/04/25
神野遺跡は北浦に面した舌状台地上に位置し、縄文時代後期から晩期の遺跡です。
平成14年10~11月の発掘調査では、縄文時代後晩期の集落址及び貝塚が見つかりました。
貝塚の貝層は縄文時代後期前葉堀之内1式期から廃棄堆積が開始され、一時中断する期間を挟み、晩期中葉にまでわたっています。なお、貝類については、鹹水性のハマグリ・バカガイ・シオフキ等が主体を占め、晩期の一時期にはアカニシの単純貝層が入り、計16種の貝種を確認しました。貝種からは当時の遺跡周辺の自然環境が内湾のやや奥まった浅い砂泥底の海であったと推定できます。
貝塚近くの土坑内からは完形の浅鉢・深鉢等の土器及び多数の土器片、獣骨・魚骨等が見つかりました。貝層中からはヤス状刺突具5点、土器片錘が見つかり、当時の漁労活動の一端を伺うことができます。また未製品ではありますがベンケイガイ製の貝輪1点も見つかりました。
調査で見つかった主な遺物は縄文時代後期・晩期の土器、土製品(土器片錘・土製円板・土偶脚部)、石器・石製品(磨石・石皿・砥石・軽石製品)、骨角製品(ヤス状刺突具)、獣骨(イノシシ・ニホンジカ・イヌ・アシカ類)、魚骨(クロダイ・スズキ・コチ・サメ類 等)、貝類(ハマグリ・バカガイ・シオフキ・アカニシ・オキシジミ等)、貝輪です。

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日光山古墳群

2017/04/25
 北浦を望む台地上(鹿嶋市大字津賀字日光山)に所在する日光山古墳群は13基と周知されていましたが、現存している墳丘は6基のみです。他の古墳は土取りや開墾により消滅したと思われます。平成14年3月~4月に発掘調査したのは10号墳と13号墳。
10号墳は前方後円墳で、前方部が削られているものの残存状況は良好でした。後円部南側の裾部から未盗掘の主体部(箱式石棺)が発見され、人骨と副葬品の直刀4振、鉄鏃16本以上、刀子1本が見つかりました。直刀の1本の鍔には「の」形の象嵌が施されています。周溝からは土師器の杯が出土しました。墳丘の形態や副葬品などの状況から、10号墳が構築されたのは6世紀末葉から7世紀前葉と考えられます。
13号墳は円墳と考えられていましたが、造り出し部に主体部(箱式石棺)を持つ帆立貝式古墳であることが分かりました。主体部は完全に破壊されて、墳頂下から土師器の杯が出土しました。13号墳が構築されたのは周溝での10号墳との切り合いや出土した遺物の状況から7世紀前葉から中葉と考えられます。
■調査前墳丘 手前10号墳 ■10号墳土層断面
■10号墳主体部遺物出土状況 ■10号墳主体部

 


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西平遺跡(にしだいらいせき) 

2017/04/25
 西平遺跡は北浦に面した舌状台地上に位置し、現況は山林・畑です。遺跡は縄文時代早期から中世まで続く複合遺跡です。
平成8年度・10年度の発掘調査では、弥生時代後期の竪穴住居跡8軒・土坑1基、古墳時代竪穴住居跡42軒・土坑1基、奈良・平安時代の竪穴住居跡21軒・土坑2基、中世の方形竪穴状遺構21基・地下式坑1基などが見つかりました。
調査で見つかった主な遺物は旧石器時代の剥片、縄文時代の土器片・石製品(磨石・石鏃・凹石)、弥生時代(広口壺)、土師器(杯・高杯・椀・坩・甕・甑・手捏ね土器)、須恵器(杯・蓋・盤・甕・甑)、土製品(勾玉・球状土錘・管状土錘・土玉)、石製模造品(双孔円板・剣形品・勾玉)、石製品(勾玉・臼玉・管玉・紡錘車・砥石・硯)、鉄製品(鏃・鎌)、陶器、古銭等です。 
△西平・五安遺跡遠景 △西平遺跡 平成8年度調査区域全景
△西平遺跡出土弥生土器
茨城県教育財団文化財調査報告書第165集 より

 


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第30回 古代の税金? ~神野向遺跡から見つかった炭化米~

2017/04/25
 ついこの間までお米で税金を納めていたことをみなさんはご存知ですか。
奈良・平安時代の郡の役所跡である神野向遺跡の大溝からたくさんの炭化材や炭化米が見つかっています。大溝は税として納められた米を入れておく倉庫域の周囲を取り囲むものでした。この大溝から炭化米が見つかったことにより、倉庫が火災を受けたことが想像されます。
645年「大化の改新」によって全ての土地と人民は戸籍の整備等により国家管理体制となり、646年「班田収授法」により人々に「口分田」(くぶんでん)と呼ばれる農地を与える代わりに、収穫した稲の約3%を「租」として国家に納めることとしました。つまり、律令国家の財源は人々を戸籍に登録し、税を負担させることによって成り立っていました。
「班田収授法」に始まった米を税として納めるしくみは、世の中を治める人や社会が替わっていく中で、1837年(明治6)「地租改正法」が公布されるまで約1200年続きました。
そして神野向遺跡の大溝から見つかっている炭化米は租税そのものでしょう。

 


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第29回 古代のはんこ ~銅印「福」~

2017/04/25
おめでたい字「福」の銅製の印を紹介するよ。

印は鹿島郡家(かしまぐうけ)という奈良~平安時代の鹿島郡の役所である神野向遺跡の食膳を担当する厨家(くりや)地域から見つかった。3.3cmの方形で高さは3.7cm、鈕の部分は少しゆがんでいる。
現代社会でも必要で大切な印章は古代律令社会でも同じ。古代の印は何種類もあって、内印(天皇御璽)が一番大きく格が上。大きさはその格で厳密に規定されていたんだ。常陸国印は見つかってないけど、奈良正倉院の文書から印影を知ることができるよ。「福」印の詳しい性格はわからないけど、当時の大切な印であることは確か。大きさからみると郡印(方約4.7cm)より小さいんだ。
実物はどきどきセンターにあるから、見に来てね。

 


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第28回 「私も読めた奈良・平安時代の墨書土器」

2017/04/25
 鹿島郡家(かしまぐうけ)って知ってますか?奈良~平安時代の鹿島郡の役所のことです。古代の役所は実質的に政治を行う政庁(せいちょう)と郡内から集められた租税稲を収納した倉庫群正倉(しょうそう)、役所の食膳を担当する厨家(くりや)とに分かれていました。
今日紹介する墨書土器はその厨家から見つかった土器「鹿厨」と「神宮」です。当時の食器である土器の底に墨ではっきりと書いてあります。1200年も前の文字が自分でも読めるなんて感動ですね。
役所のあとからは、このほかにもたくさんの墨書土器や瓦、銅印「福」も見つかっています。



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